井手学長だより2021.11.30 おめでとう!ヤクルト優勝
私がヤクルト・ファンになったのは私が高校2年の1977年頃。
ほとんど目立つことのなかったチームが史上初めてセ・リーグになった頃からでした。当時の監督は広岡達郎監督。ONみたいなスター選手はいないけど、守備や走塁を頑張ってる印象が強かったチームでした。
当時、私は水球少年で高校2年では岡山のインターハイ、青森国体などに出場しました。
インターハイでは前年のチャンピオンである岡山の関西高校(かんぜい)に11対3くらいで負けたのですが、最終ピリオドは我々2年生だけで戦い、1点もぎ取ったことを鮮明に覚えています。
翌年は3年生となって、九州大会は準優勝。インターハイでも好成績を上げるぞ!と乗り込んだ福島インターハイでは大阪商大付属に1点差負け。
意気消沈して熊本へ帰ってきて、国体は鹿児島南と川内連合軍に負けて出場権を失い、受験勉強をする気にもなれず、ボケ―――っと腑抜けのように過ごしていたのが9月。
そのときにヤクルト・スワローズが初優勝し、よし俺も頑張ろう。そう思いなおしました。
その後、広岡監督は西武に引き抜かれ、ヤクルトは暗黒時代を迎えるのですが、1990年ついに野村監督を迎えることとなります。
私が野村監督の本を最初に読んだのは中学生の頃、「敵は我にあり」だったと記憶しています。ビッグコミックの「あぶさん」で野村監督を知ったのですが、当時から科学的な分析に興味を持っていました。
野村監督が引退した後は、週刊誌の連載記事を欠かさず読んでいたものです。
その憧れの野村監督がスワローズの監督に就任するのは、これは完全に「私のため」に違いないと確信し、テレビでゲームがあればビニール傘とメガホン持って、小さな娘と応援。藤崎台や平和台に来れば、どうにか休みをとって応援に出かけたものです。
90年代は野村ヤクルトの全盛時代で、夢のような日々でした。池山が巨人戦で放ったホームランに大感動したものです。野村再生工場では毎年、いろんな個性的な選手が大活躍して、プロとして再び光り輝いていました。
弱者の戦い方。創意工夫。諦めないこと。負けから学ぶこと。よく考えること。持てる資質を最大限に活用すること。チームとして考えること。データを大事にすること。強大な敵であれ、必ずスキがあること。
野村監督から得た知恵はとても大きく私の中に残っています。
今回の日本シリーズ延長12回表ウラ、両チームでの代打の切り札の使い方の違い。大変興味深く観ていました。
ヤクルト高津監督は切り札をツーアウトランナー無しでも使わず、そのまま塩見に打たせました。結果は出塁。そしてやっとそこで代打の切り札。ピッチャーのプレッシャーからか暴投して、ランナー2塁。そして内野と外野の間にしぶとく落ちるタイムリーヒット。
かたやオリックスはランナー2塁で代打の切り札。あっさりと申告敬遠。後続が倒れてスワローズが日本一になりました。
野村ID野球の遺伝子が新しい大監督を誕生させた瞬間です。
胴上げの時、ベテランの山田選手や中村選手、若い村上選手までもが大粒の涙を流して喜んでいる姿が印象的でした。私ももらい泣きしました。データ野球、管理野球と同時にエモーショナルな戦うチームの闘志を感じました。
ヤクルトの勝ち頭は19歳の奥川選手です。彼は規定投球回を達成せず、中10日のローテーションで大事に大事に、そして大胆に抜擢されて育っています。
旧来の「常識」にとらわれず、現実に即した実践的な育成法で順調に成長しています。
来年は野村監督の阪神時代の教え子、新庄監督も誕生して、いまからヤクルト対日本ハムの日本シリーズが楽しみです。
天国にいる野村監督もニッコリ笑って喜んでいることでしょう。
でも、最後にこんなボヤキが聞こえてくるような気もします。
「人間。褒められているうちは半人前や。」
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